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lyricstravel

某企業で広報などしてます。日々の生活で気になったことを勝手気ままに綴ったり、洋楽の翻訳もしています。 ※文章力、英語力の甘さなどゆるく見ていただけると助かります。最近、JUGEMに音楽和訳を移行しています。「http://lyricstravel.jugem.jp/」

【浅田真央もお気に入りの名曲ができた裏ストーリー】テレサ・テン〜白熱ライブビビットより〜

最近、着物でのCM撮影をしたことだけでも大きな話題となるなど、常に世間の注目を浴びるフィギュアスケート選手、浅田真央さん。

先日、休業宣言をやぶり復帰会見を行いました。

その中で彼女は、
テレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」という曲が復帰のきっかけとなった』
といった内容の発言をしていました。
 
その後、この「時の流れに身をまかせ」以外のテレサ・テンさんのヒット曲も、カラオケやiTunesのランキングで急上昇を続けているそうです。

やぱり浅田真央さんの影響力はすごいですね。
テレサ・テン(Teresa Teng)1953年1月29日 ‐ 1995年5月8日
別名 :アジアの歌姫
 
その死や、孤独な人生に謎も多いテレサ・テン
彼女のヒット曲の裏話と人生についてまとめてみました。
 

テレサ・テンの歩んだ人生

1953年、中華民国(台湾)の雲林県で軍人の父と母、3人の兄の家族に生まれたのがテレサ・テンです。
(のちに弟が生まれます)
 
幼い頃から音楽が好きだったテレサ・テンは、地元台湾の音楽コンクールに出場する中で、10歳の時に出場したラジオ局主催の歌唱コンテストで優勝。
これをきっかけに天才少女として注目を集め、14歳で歌手デビュー。
すぐに、その歌唱力と可愛い容姿で人気の歌手として台湾のスターとなりました。
 
16歳の時には主演映画が製作され、女優デビューも果たしています。
 
その後台湾での人気をバネに17歳で香港デビュー。
 
10代で、香港トップスタートップランキングTOP10にはいるなど台湾でもその頭角を現して行きます。
 
アジア全体で人気の歌手となっていった彼女が日本で歌手デビューしたのは1974年21歳の時。
▼TBS白熱ライブビビットより
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後に「テレサ・テンの日本の父」と呼ばれることとなる舟木稔さんが現地通い、ようやくテレサ・テンのご両親を説得し日本デビューに至ったんだとか。
 
 
契約は、「日本ポリドール」(現ユニバーサルミュージック)との間に結ばれます。
 
満を期してリリースされたデビュー曲はアイドル歌謡曲路線の「今夜かしら明日かしら」
今夜かしら明日かしら

今夜かしら明日かしら

  

 

しかしヒットに至りませんでした。
そこで、路線を演歌歌謡曲路線に転向したところ、日本デビュー2作目の「空港」がヒット。
空港

空港

 

第16回日本レコード大賞新人賞を獲得し日本でもトップ・スターの仲間入りを果たしました。
 
歌手としての活動は順調に言っていたのですが大きな問題が起こってしまいます。
1979年2月、正式な台湾パスポートではなく、インドネシアパスポートで来日しようとした為、旅券法違反で国外退去処分となってしなったのです。
▼TBS白熱ライブビビットより
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ただ、これには理由が。
この事件が起きた1972年ごろは、日中国交正常化の影響で日本への入国は台湾パスポートではかなり面倒な手続きが必要な状態でした。
 
このため、テレサ・テンは、インドネシアのパスポートで「エリー・テン」という名前で入国しようとしていたと言われています。
 
その4年後、「日本の父」船木さんがもう一度テレサ・テンの元を訪れます。
▼TBS白熱ライブビビットより
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「アジアではトップスターだけれど、日本では一曲だけの中途半端な歌手になってしまう。もう一度やり直しましょう」
と声を掛けると、テレサ・テンは準備万端と言った様子で日本での活動にとても意欲的だったそうです。
 
1984年、再来日が許可され、レコード会社もポリドールからトーラスレコードへ移籍し再スタートの準備を整えます。
そして生まれたのが、「つぐない」。
 
▼TBS白熱ライブビビットより
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作詞荒木とよひささん、作曲三木たかしさんの最強コンビで作られた曲「つぐない」は、有線放送で人気となり大ヒット、日本有線大賞など数々の賞を受賞することになります。
つぐない

つぐない

 

翌年1985年には「愛人」をリリース。
愛人

愛人

「愛人」も再び荒木・三木コンビが手掛け、第36回NHK紅白歌合戦に初出場します。

当時の紅白は今の紅白とは異なり、出場できるだけでもかなりの名誉で重みのあるものでした。(ちょっと今のNHKさんに失礼な発言かもしれない・・)
 
そして1986年、荒木さん・三木さんのコンビ3作目である曲時の流れに身をまかせがリリースされます。
時の流れに身をまかせ

時の流れに身をまかせ

 

浅田真央さんの復帰を後押ししたという歌詞はこちら▼
もしも あなたと逢えずにいたら わたしは何を してたでしょうか
平凡だけど 誰かを愛し 普通の暮らし してたでしょうか
時の流れに 身をまかせ あなたの色に 染められ 
一度の人生それさえ 捨てることもかまわない
だから お願い そばに置いてね いまは あなたしか 愛せない

もしも あなたに嫌われたな 明日という日 失してしまうわ
約束なんか いらないけれど 想い出だけじゃ 生きてゆけない
時の流れに 身をまかせ あなたの胸に より添い 
綺麗になれたそれだけで いのちさえもいらないわ
だから お願い そばに置いてね いまは あなたしか 見えないの
この歌詞を改めて読むと、浅田真央さんにとっての「あなた」は今は「フィギアスケート」 なんですかね。なんだか切ない。
 
さて、この時の流れに身をまかせを作るにあたっては、メロディーも10回以上やり直し、またレコーディングの際にテレサ・テンが一回スタジオをでてレコーディングが遅れるなど、レコーディングだけでも10時間以上かかった曲だそうです。
ちなみに、テレサ・テンがレコーディングを抜けた理由を尋ねられると「プールで泳いでいた」と答えたそいです。
 
それくらい、精神的に整理が必要で、気持ちの入った曲なんですね。
 
この時の流れに身をまかせで、テレサ・テン紅白に二年連続出場しました。
 
その後1987年から住居を香港に移すと日本での活動が減って行きます。
 
テレサ・テンは当時中国で盛んだった民主化要求デモをサポートするような活動を行っていたものの願いは中わず天安門事件が起きてしまいます。
そのような不安定な社会情勢の中、彼女の夢でもあった中国本土での初のコンサートも中止に。
 
絶望し、「夢が殺された」と語った彼女は、その後故郷を離れフランス移り住みます。

 

その頃、テレサ・テンは喘息で体調を崩し出すことに。
 
1995年5月8日、静養のため訪れたタイ・チェンマイのメイピンホテルで気管支喘息による発作のため、42歳の若さでその波乱に満ちた生涯を終えます。
 
地位、富、名声。
多くの人が仕事を通して欲しがる全てを手に入れた彼女。
でも、心の中はおそらくとても孤独だったのではないでしょうか。
 
実は、日本で再デビューする前に婚約者がいたそうです。
婚約者の家族から。「歌手をやめて家庭に入るように」と言われたテレサは、結婚をあきらめ歌うことを選びました。
女性にとっては、かなり大きな決断ですよね。
 
さて、そんな全てを歌に捧げた彼女ですが、テレサ・テンの死後から20日後の28日に台北で行われた国葬には、世界各国から3万人ものファンが訪れたそうです。
 
当時、彼女の死には様々な憶測もあったようですが、そこには今回は触れないでおきます・・
 
 
未だに歌姫として愛されるテレサ・テンさんと、今まさにフィギア界で輝き続ける浅田真央さん。
 
フィールドは違いますが、どちらも人へ感動を与へつづける2人の女性。
 
光をたくさん浴びる分、影が濃くなる事もあると思いますが、真央ちゃんにはこれからも世界に感動を与える人として人生を歩んでほしいですね。
 
TBSの白熱ライブビビットで、作詞家の荒木とよひささんと「テレサの父」舟木稔さんから真央ちゃんにメッセージがありました。
 
作詞家の荒木とよひささんから
人生、時には時間に任せるしかない時もある。真央ちゃんは、まだ若いのに「よし、頑張るぞ」と力むのではなく、この曲(時の流れに身をまかせ)の歌詞のようにやわらかい気持ちで決心してくれたのだと思う。作詞家としてとても嬉しい。
 
舟木稔さんから
真央さんの会見を見て本当に嬉しく思う。
歌は聞く人によっていろいろな解釈があると思いますが、大切なのは聞く人の心にどう響くか。真央さんもこの曲の歌詞から自分地震の人生の中できっと何か見出すこのがあったのでは・・・
テレサが生きていたらとても喜んでいたと思う。